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如説修行抄を学ぼう! |
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第1回 第2回 第3回 第4回 第5回 第6回 第7回 第8回 |
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今月から、「如説修行抄」について講義を始めます。 高祖日蓮大士が如説修行抄をお書きになられた背景 如説修行抄は、文永10年(1273年)5月に高祖日蓮大士が佐渡ヶ島の一の谷(さわ)でお書 きになられました。高祖は国の権力者や他の宗派からの謀略によって命に関わる迫害を加えられ ましたが、妙法の御経力によって誰も高祖の命を奪う事は出来ませんでした。 その後高祖は佐渡ヶ島に無実の罪で御流罪になり、塚原三昧堂という死人を捨てるような場所 に入れられました。しかし、高祖のお徳に感化された人々が高祖のお命を支えられ、一の谷へと 移送されたのです。 しかし、数々の迫害や高祖の佐渡御流罪によって御信心に疑いを抱く御信者もあり、御信心を やめる人もいました。 そんな中、全ての御信者へ向けて、高祖ご自身は生命の危険にさらされながら、食事もお書き 物をされる紙も乏しい中「如説修行抄」をお書きになり、法華経の御信心をさせていただく上での 心構えを教えてくださったのです。 この教えは当時の御信者だけに残されただけでなく、今現在、正しく本門法華経の御信心をさ せていただく我々佛立信者にも重要な教えであるのです。 この「如説修行抄」の一ヶ月前に発表された「観心本尊抄」、そして「四信五品抄」の3っつを、 開導聖人は「当家三部の如説抄」と仰せになり、高祖の最重要御書として定められたのです。 我々、佛立信者はことある毎に「如説修行抄」を拝読し、御信心をさせていただく心構えを強く 持たせていただくのです。 この講義では、簡単ではありますが「如説修行抄」に書かれていることを、学ばせていただきます。 (如説修行抄の解説、大放光社刊より抜粋) [目次に戻る] |
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如説修行抄第1段 現代語訳 そもそも法華経を拝見して考えてみると、仏様がそのお姿を隠されてから2000年経った末法 と呼ばれる今の時代は、いよいよ法華経本門の教えである上行所伝の御題目がお弘まりになる 時節である。この時代に、この世界に人間として生まれ、逢い難い妙法の大法にお出値いし、 信心修行の志を起こした人には、仏様がおられた当時よりきつい怨み嫉みを受け、色々な苦難が 重なると予言されているところに、思いを向けなければいけない。 何故、現在のように末法の法華経の行者が仏様当時より多くの怨みや嫉みを受けるのかという と仏様ご自身が御弟子を教育されていた時は、その御弟子方は大変宗教的能力の高い方々で あったし、普通の人や天上界の人、また動物に類する者も仏様は段階を経て法華経をお説きにな った。しかしその時でもなお、仏様ご自身怨み嫉みを受けられたのである。 まして、末法という時代は法華経本門八品の肝心、上行所伝の御題目がお弘まりになる時期で はあるが、教える師匠も凡夫なら、教えを受ける人々も争いを好み、真実の仏法を信じようとしな い時代に生まれ合わせた、むさぼり、いかり、おろかな心を持つ凡夫ばかりであるからである。 だから、どうしても真実を伝える教師からは離れ、間違った事を伝える者には近づこうとする癖 があるからなのである。 補足説明 法華経本門の大法を説かれる御祖師様にとっては、その御身に降りかかる沢山の難も法華経の 正当性を証明するものでありました。それは、法華経に全て予言されていた事だからなのです。 だからこそ、先ず法難に恐れて信心を止めてしまった多くの弟子信徒の為に、その疑いを取り 除くことからご説明をされるのです。 [目次に戻る] |
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今月は如説修行抄第1段後半、「其うへ真実法華経の如説修行の行者の〜」ところからです。 現代語訳 その上、真実の教えである法華経を教えのまま修行する行者である我々には、その修行を妨げ ようとする3種類の迫害者に襲われることは、法華経に明白に示されていて間違いの無いところ である。 ならば、法華経の教えを聞き、信じ、信心修行を志したその時から、その迫害に対する覚悟を思 い定めるように。末法という時代は必ず強力な3種類の妨害者が非常に多く出現すると。 このように法華経の教えのままに修行することは、よほど覚悟が必要であるのに、我が日蓮門下 の中にも、かねがねこの事をよく聞いているのにも関わらず、色々な迫害が実際に迫ってくると、 その時に始めてのように驚いて肝をつぶして信心を止めてしまう者が相当いる。 かねがね教えておいたではないか。法華経に示された御文、「なお、怨嫉多し。いわんや滅度の 後をや」「いわんや滅度の後をや」と朝夕に教えていたのは、この事である。 私、日蓮があるいは住んでいた場所を追われ、あるいは暴漢のために傷を負い、あるいは二度 の遠島流罪になったのを見聞きしても、既に法華経に予言されていた事であって、今始めて驚く ような事ではないのである。 補足説明 「三類の敵人」…法華経勧持品に示されている、法華経行者の修行の妨げをする3種類の迫害 者のこと。@俗衆増上慢…世間一般の人々が、法華経を信じ修行する人を軽蔑したり、自分の 信じるものや能力が真実最上と誤って信じ、真実法華経の教えを非難し、法華経修行者に悪口 、暴力を加えるような人のこと。A道門増上慢…法華経行者に対し迫害を加える仏門の僧侶の こと。B僭聖増上慢…法華経行者に迫害を加えるような、聖人をかたり、立派な指導者と自分を 思い込んでいるような人。俗に諸宗派、諸宗教の元祖、教祖と振舞う人のこと。 「思い定め」…如説修行抄の全体の意味に一貫するお言葉で、法華経行者の覚悟のこと。開導 聖人は、思い定めには5つの意味があり、@自分の心の怠け心、信心から心を離させるような誘 惑に負けないと思い定める。A今の一生を御法のために尽くし終わることを思い定める。B他の 御信者の謗法を見過ごさず、聞き過ごさず折伏に勤めることを思い定める。C本門八品上行所 伝の御題目の御本尊以外に信仰心を移さないよう思い定める。D信心を第一にして自分考えを 捨てて信の一字として修行に励むことを思い定める、と教えてくだされている。 如説修行抄には、いわゆる「三定め」が教えられている。「思い定め」「打ち定め」「唱え死に」がそ れである。今後の講義で順次説明いたします。 [目次に戻る] |
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今月は如説修行抄第2段前半「問て云く、如説修行の行者は現世安穏なるべし〜」の御文の解 説です。 現代語訳 今の人々が抱く疑問として、法華経の教えにしたがって修行する人々は現世安穏となる、と法華 経に説かれてあるのに、三類の強敵が現れ、法華経の行者を苦しめるのはなぜか、ということで あると思う。 それに答えると、釈尊は法華経の教えを説く為に九横と呼ばれる大難に合い、不軽菩薩は法華 経を弘めるために石や瓦を投げつけられ、中国の竺の道生という人は流罪になり、法道三蔵とい う人は火印の刑を受けられ、印度の師子尊者という人は他宗教の迫害によって殉教された。 そして、天台大師は中国全土の仏教学者に憎まれ批判を受け、日本の伝教大師は奈良南都六 宗の人々から憎まれた。 これらの人々は法華経を弘める為に修行したり、そのお心をいただいて修行された為に色々な 迫害に会われた。 これらの人々を法華経を修行した人と言わねば、誰が法華経の行者であろう。正しくこれらの人 々こそ、法華経の行者、如説修行の人々である。 では、今の世の中を考えてみるとどうだろうか、末法という世の中は人々は日夜闘争にあけくれ 心から仏法を信じる者はなく、国も権力者や庶民も正しい御法に背き、全ての人々が皆三毒強盛 の者ばかりで、正しい御法をしりぞき邪法を慕い、よこしまな法を施す指導者を尊重しているから 国には悪鬼がはびこり、様々な災いが続出している有様である。 補足説明 「三災七難」 三災→@飢餓A戦争B疫病 又は@火災A水害B台風 七難→@疫病A他国からの攻撃B国内の内乱C惑星の運行の変異D日食、月食の変異 E風雨の災害F干ばつの難 [目次に戻る] |
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今月は如説修行抄第2段中節、「かゝる時こくに日蓮仏勅をこうむりて〜」からの御文の解説で す。 現代語訳 このように世の中が乱れ、人は心に光を失い、一切衆生がことごとく救われる大法があらわれな けらばならない時にあたり、この日蓮は久遠本仏の直々のご命令をいただき、この世に生まれ出 たということは、時代は三災七難が盛んに起こる不祥の世であるけれども、久遠本仏のご命令に は背く事は出来ないから、法華経の、み教えに従い、仏の教えにも仮の教えと真実の教えがある ことを明らかにし、この身には忍耐の鎧を着て、手には正邪、仮の教えと真実教とをハッキリ分別 する法華経本門の教えの剣を引っさげ、本門の肝心妙法の御題目を旗印に、未だ真実があらわ されていない諸々の経々を素直に捨てよと教えさとし、法華経の教えにしっかりと心を乗せて、 仮の教えを説く各宗派へ攻め上り、各所におしよせ、念仏、真言、禅宗、律宗などの八宗九宗と いう全ての諸宗の法華経に敵対する人々を責めた。 それらの人々の中には、あるいは逃げたり、あるいは相手にせず、中には正しい教えを聞き入れ て、教えを信じる人があった。 一進一退の攻防を繰り広げてはいるが、法華経に敵対する者は数多く、それに対して法華経の 如説修行者の数は少ない。今にいたってもこの法戦は止むことはない。 補足説明 「かゝる時こくに、日蓮仏勅をかうむりて」 御祖師様が上行菩薩後身のご自覚を明らかにされている重要なご文である。 「八宗九宗」 念仏宗、真言宗、禅宗、律宗の4宗に倶舎宗、成実宗、三論宗、法相宗、華厳宗の5宗を加え た鎌倉時代の諸宗派を指す。 中でも倶舎宗、成実宗、三論宗、法相宗、華厳宗、律宗は奈良時代に弘まった宗旨であること から、奈良南都六宗という。南都の語は奈良時代の後に京都が北に出来たのに対して、奈良を 南都と称したことによる。 [目次に戻る] |
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今月は「法華折伏破権門理の金言なれば〜」から第2段の終わりまでのご文の解説です。 現代語訳 「天台大師によると、法華経は他の経文を信奉する者の理を破り、折伏する金言であると断言さ ていあるところから、我々法華経の行者の使命は諸宗の方便の教えを信じる人々を、一人残らず 教化折伏して、久遠本仏の御身内にさせていただくことである。世の中のあらゆる立場の人々が みんな、本門法華経の信者となって世界中に御題目のご信心がお弘まりになったとき、全ての人 々の口々から御題目が唱えられた時、吹く風は穏やかに、降る雨も静かに、世の中はその昔、 中国に伝えらる伏義王、神農王が治めた理想の世界となる。法華経の治める世界は、全ての人 々に、思いがけない災難による命の危険もなくなり、のどかに長寿をまっとう出来るようになる。 お弘まりになる妙法は永遠不滅のご法であるから、お持ちする弟子信者は生も死もご法のお計ら いをいただき、全く危惧することはない心地を知ることができる。これが不老不死の道理であり、 法華経のご利益である。そのときになって、初めて法華経に説かれた『現世安穏』のご文が真実で ある事を知ることが出来るだろう。」 補足説明 「不老不死」 法華経薬王菩薩本事品に説かれたご文。今の肉体の寿命が永遠となる、という意味ではなく宇 宙万物を動かす力、妙法と一体となるという意味である。煩悩の迷いを捨て、ご信心が増進して ご法に身も心も任せきった状態ということ。魂は永遠で生きるも死ぬも妙法の中、ということを感 得し、信じる事が出来た状態、ご利益を感得させていただける信心前をいただき、随喜して生ま れ変わり死に変わりつつ、菩薩行に励むことを決定し欲心の迷いに引かれない固い信心前をいた だいた状態のことをいう。 [目次に戻る] |
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今月は如説修行抄第3段始めのご文「問ていはく、如説修行の行者と申すは何様に信ずるを申 すべきや。〜」の解説です。 現代語訳 如説修行の行者というのは、どのように法華経を信じるのをいうのか、と問い質してみると、 答えるなら、先ず今の世間一般に知られる、仏の説の如く修行する行者というのは、全ての経文 を、法華経の教えから考えてみてその本質を探ってみれば、全ての経文は皆法華経の教えからあ らわれたものであるとしている。 だから、全ての経文を一つのものに絞ってみれば、どれも皆法華経の教えになる。 そういう点から見れば、法華経を含め全ての経文には何も上下とか、勝っているとか劣っている とか、浅いとか、深いとかの差別は生じない。 だから、念仏を唱えるのも、真言密教の教えを信じ行じるのも、禅の修業をするのも、その他の 教えを信じ、他の仏、菩薩の教えを信じ、そのお名前を唱え救済を求めても、これらは全て法華経 の教えから出ているものだと信じれば、これが法華経を説かれるそのままに修行している人である と、言っているのである。 補足説明 このご文は、御祖師様当時にはびこる念仏や真言などの宗派が、自らの教えの正当性の主張 するところを、総合的にまとめた所である。 確かに法華経は全ての経文の王であり、全ての教えの根本であるが、全ての経文は法華経から 出てきたものとする教えを盾に、それを拡大解釈をしてその他の経文を信じ、説かれている修行を しても、大日如来や薬師如来のように他方の仏を祈っても、それらは法華経の教えから出ている と信じていればいいのではないか、と他の宗派は主張しているのである。 この各宗派の主張を、この後のご文で否定をされて行く。 [目次に戻る] |
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今月は如説修行抄第3段中前「予が曰く然らず、所詮仏法を修行せんには〜」のご文解説です。 現代語訳 私、日蓮が申すところは、とどのつまりは仏様の、み教えを修行させていただくには、仏様の説 かれる、み教えのままさせていただくべきで、後世の人が勝手な解釈をした言葉によるべきではな い。 参考:涅槃経「依法不依人」(法に依って、人に依らざれ)。 我々が根本の教主と仰ぎ奉る久遠本仏は、この娑婆世界に衆生をお救いされんがために人間 釈尊のお姿でご出現になり、我々に仏道修行のお手本を示されて、30歳の時に悟りを開かれた その時から真実の教え、法華経を説き示すおつもりであったが、当時の衆生の宗教的能力が法華 経の教えを受けるまでに至っていなかったので、その前に、仮の教えを40年余りの間説かれて、 衆生の能力を高められたのである。 補足説明 久遠本仏…五百万億塵点劫という遠い過去に、この世で始めて真実を悟られた仏。根本の仏様。 釈尊も、その他のたくさんの仏も、本仏から分身された仏である。 [目次に戻る] |
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今月は、如説修行抄第3段中後「此経の序分無量義経にして権実二教の〜」のご文解説です。 現代語訳 法華経に入る前、真実教の入り口として仏様は「無量義経」を説かれたが、この経の中に、方便 の教えと、真実の教えの区別をはっきりと示されている。いわゆる「衆生の能力も欲心もそれぞれ 違い、真実教を説く準備として種々の教えが必要であった。私(仏)は方便力という仏の能力を使 ってたくさんの法を説いてきた。この40年余りの私の教えの中には未だ真実をあらわしてはいな かったのである。(趣意)」と説かれている事である。 これを聞いた大荘厳菩薩を始め、8万の大菩薩方は、仏様が先ず初めに仮の教えを説き、それ から真実の教えを説かれるので、これまでの教えは捨て払え、と説かれている事が納得できたので、 それを了解したところを仏様に「法華経以前の教えでは、どんなに永く修行しても成仏は叶わない 事がよく分かりました。(趣意)」と申し上げたのである。 その後、法華経を説かれるに至って、「私(仏)は、まさに真実を説く(趣意)」というお言葉を始 めとして、「全ての世界には唯一絶対の、み教えがあり、それは二つもなく、当然三つもない。 仏の方便の教えを除きなさい。(趣意)」とも、「正直に方便を捨てよ」とも説かれて、「ただただ願 って真実教をたもちなさい。ほかの経文の一節をも、たもってはなりません(趣意)」とご注意下さ れているのである。 [目次に戻る] |
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今月は如説修行抄第3段後「是より已後は唯有一仏乗の妙法のみ〜」のご文解説です。 現代語訳 先に示した通り、法華経が説かれて後は、他の教えを少しでも信じて従うような事があってはい けない、と仏様がご注意されたからには、一切衆生を成仏させるのは法華経であって、法華経の 他の諸経は少しの利益もないと心得るべきである。 その事が明らかにされているのに、末法の今の仏教を学ぶ者は、諸経も法華経も全て仏の教え であり、どれを取っても成仏の法であると思い込んで、真言宗、念仏宗、禅宗や三論・法相・倶舎 成実・律宗等などの諸宗を立て、諸経を取り取りに信じている。 このような人々を、法華経には、「もし法華経を信じないで、そしり軽しめれば、成仏の道を閉ざ される。この人は命が終われば阿鼻地獄に堕ちるであろう。(趣意)」と断定されている。 今までに示した法華経や無量義経のご文のお心をよく心得て、教えに定められた事を本にして 少しも間違う事のないように、法華経こそ、唯一絶対の教えと信じる人こそ、如説修行の行者と 仏様がお定めになっているのである。 [目次に戻る] |
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今月は如説修行抄第4段前編「難じて云く、左様に方便権教たる諸経諸ぶつを〜」のご文解説です。 現代語訳 しかし困ったことがある。先ほど申した通り、法華経も諸経も、本仏も他の仏も同じ仏の教えだからと 諸経や諸仏をそれぞれに信じ頼るは間違った考えであるのは分かった。 では、仏説に従い、法華経一経のみを依り所として、お経文に示された通りに、受持・読・誦・解説 (げせつ)・書写という五種の修行に励んで、安楽行品に説かれる四安楽行を修行すれば、それで 如説修行の行者となれるのかどうかが問題である。 補足説明 五種の修行…仏滅後の法華経修行の方法の事。如説修行を五種に定められている。 これら五種の修行は身・口・意の三業に分けられる。 「意」…「受持」…法華経の修行への信念を固める事。 「口」…「読」……御文字を見て、口で唱える事。 「誦」……御文字を見ずに、口で唱える事。 「解説」…法華経のお意をいただき、他の人にこれを説き知らしめる事。 「身」…「書写」…法華経を拝写する事。 ただし、五種の修行にも「広・略・要」がある事に注意が必要。 広の五種の修行とは、法華経全体を受持し、読・誦・解説・書写すること。 略の五種の修行とは、法華経の一句一偈、一品二品などの一部分を受持し、読・誦・解説・書写する こと。 これに対し、要の五種の修行とは、本門法華経の御題目を受持し、読・誦・解説・書写すること。 これについて、祖師は御妙判を下されている。 「日蓮は広略を捨てゝ肝要を好む。所謂上行菩薩所伝の妙法蓮華経の五字也」(法華取要抄) だから、滅後末法の凡夫の法華経修行方法は、上行所伝の御題目の受持・読・誦・解説・書写する ことにある。これを突き詰めて、身口意三業の中でも要を取れば末法は口業正意であるから、御題目 口唱こそ末法相応の法華経修行方法となるのである。 本文で指摘しているのは、五種の修行をするに当たって、迹門と本門にそれぞれの持つべき態度が 示されている。法華経安楽行品に示される、「摂受」の態度。法華経不軽菩薩品に示される「折伏」の 態度である。これら二つには大きな差がある。末法においてはどちらの態度を取るか、である。 四安楽行…身・口・意・誓願安楽行の4種類が示されている。 身安楽行……忍耐力を養い、ほがらかに、従順で、荒々しい行いをせず、常に法を念じること。 かつ、修行の妨げになる人々から遠ざかる事。座禅をし、人里遠くの所で心の修養を することを勧められる。 口安楽行……法華経以外の教えや修行をする人に対し、あえてその間違いを正さない。 他人を批判しない。利己的な人をほめたり、けなしたりしない。 人を恨み、ねたむ気持ちを持たないことを勧められる。 意安楽行……嫉妬の心、人に媚びへつらう心、人を軽ろしむ心、人を悩ませ苦しませる心、いたずら に競争心を起こす事を慎むことを勧められる。 誓願安楽行…常に大きな慈悲心を持って人に接する事を勧められる。 安楽行は過去にすでに御題目の下種を受けた修行者に勧められ、折伏行は未だかつて御題目の下種 を受けなかった人に対して行われるものである。 [目次に戻る] |
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今月は如説修行抄第4段中「こたへて曰く、およそ仏法を修行せん者は〜」のご文解説です。 現代語訳 それに答えると、仏の教えには大きく2種類あり、摂受と折伏がある。あらゆる経文も、先師の教えも この2種類に分けられている。 国中の諸々の諸宗の学者達は、仏法を大体は学んだだろうが、この攝受・折伏の二門の法門があること を見逃して、仏の教えや修行方法は時機に叶い、相応しなければならない事を知らない。 例えて言えば、1年には春・夏・秋・冬の四季があり、気候の変わり目がある。自然はそれに従い、 花を咲かせ、果実を実らせる。 人々も、この四季に従い、春には種をまき、夏には作物を育て、秋に収穫をする。もし季節を弁えず 秋に種をまき、収穫を春にしようと思っても、作物は育たず徒労に終わってしまう。 厚き衣は極寒の冬に用い、酷暑には暑すぎて着られない。涼しい風は夏の暑い時期にこそ嬉しいが、 寒い冬には風を避けるのが当然である。 仏法もまた、これと同じように、時刻相応ということが大事で、小乗の教えをひろめて、過去の下種 を発動し、利益がある時もあれば、権大乗の教えで救う時機もあるだろう。 だから、仏の滅後正法・像法2千年は小乗、権大乗がひろまる時なのである。 [目次に戻る] |
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今月は如説修行抄第4段後「末法のはじめの五百年には〜」のご文の解説です。 現代語訳 仏滅後、正法、像法の2千年の後に来る、末法には本門久遠一仏乗の妙法がお弘まりになる時代 である。この時には世の中は乱れ、国中の人々は争い合い、それまで弘まっていた仏の教えは、 その力を失うと、仏様御自ら予言なされてある。 そして現在を見てみると、何の役に立たない仏の仮の教えが残り、末法に人々を救う真実教が 人々の目からは埋もれてしまっている。 例えるなら、真実教が味方、仮の教えが敵ならば武器を取って敵を打ち滅ぼさねばならない。 正法、像法の時代には、その敵の姿は見えなかった。だがしかし、今の時代は仮の教えと真実が 対立しているのである。 同じ仏の教えであっても、仮の教えがその役目を終えた末法の時代には、真実教との違い目を明 らかにし、仮の教えに迷う人々を折伏して迷いを解かねばならない。 これが、摂受・折伏の2つの教え、修行の中には、法華経は折伏の教えであり、修行方法は 折伏である所以である。 天台大師が「法華は折伏にして、権門の理を破す。」と言われたのは、本門法華経がお弘まりに なる時代を予見された、本当に道理の通ったお言葉である。 [目次に戻る]
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今月は如説修行抄第4段末「然るに、摂受たる四安楽行の修行を〜」のご文の解説です。 現代語訳 だから、正法、像法時代であれば、法華経安楽行品に示される四安楽行、つまり摂受の修行で よかった。 だが、末法は仮の教えと真実の教えが混ざり、乱れている時には、仮の教えと真実の教えとの 違いを明らかにして、仮の教えを信じる人々を折伏して、真実法華経を信じさせなければならな い時であるのに、正法、像法の昔のままに四安楽行の修行をして、何事も事なかれ主義で身の安 楽のみを考えるような修行の仕方では、例えば冬に種を蒔いて、春に収穫をしようとしようとす るようなもので、これでは何の収穫も上がらない。 また、鶏は朝に声を上げるから人々の為に役立つが、夜に声を上げればありえない事に人々は 恐れを抱くだけで、害こそあっても役には立たない。 今は仮の教えと、真実の教えが入り乱れて弘まっており、真偽、利害の区別がつかない時なの に、これを明らかにせず、真実法華経を弘める妨げとなっている仮の教え、権教を折伏せずに、 ただ人のいない山里に隠れて、自分の身の安楽のみを考えて修行しているようでは、本当に法華 経修行のご本意を見失っていて、真の仏道修行とは言えないのである。 [目次に戻る] |
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今月は如説修行抄第5段「されば末法今の時は〜」のご文の解説です。 現代語訳 いままで述べてきたように、末法の如説修行とは折伏の修行にほかならないが、はたして 誰が仏の教え通りに、この折伏行を行じただろうか。 諸経は成仏出来ない、地獄に落ちる根源、法華経のみが成仏出来る御法である、などと声も 惜しまず諸宗の人や法を折伏行をする者が誰であっても、三類の強敵と言われる怨嫉を受けるの は疑いのないところである。 釈尊も法華経の御法門で、また天台大師、伝教大師も、そして末法の世では私日蓮も、仮の教 えを折伏した。 先師方も法華経の折伏行をされて御難に遭われておられる。中でも私は末法の世で折伏行をし たため、先師に勝る大難にあって来た。 だから、仏の教えの通り、法華経の修行をする行者には、必ず怨嫉があることを、うち定め、 つまり覚悟しなければいけない。 こう考えると、今、末法の折伏の修行をしているのは、私日蓮とその弟子、信徒以外にはいない。 仮に、我々を仏の教え通りの修行者ではなく、他にいるとするなら、釈尊や天台大師、伝教大師 の3人も法華経を説き、弘めた人ではなくなってしまう。 仮の教えを弘めた人が法華経の行者と言われ、真実を弘める釈尊や天台、伝教両大師が仮の教え の行者になってしまう。 真実が仮の教えになり、仮の教えが真実となり、この世の天と地がひっくり返ることになる。 例え天地が覆ることがあったとしても、こんな事が絶対ある訳がない。 [目次に戻る] |
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今月は如説修行抄第6段「あはれなるかな、いま日本国万人〜」のご文の解説です。 現代語訳 本当にあわれな事に、今世間の人々は自分の将来が不幸な運命をたどる事も知らず、私日蓮と その一門の弟子・信徒が折伏御弘通のご奉公の中で種々の怨嫉にあって苦労している姿を見て、 あざ笑っている。 しかし、俗に言う「昨日は人の上、今日は我が身の上」となる事があるように、凡夫の身の上は、 過去の罪障によっていつとも知れず、霜・露のような人生のはかなさで今生を終えるかも知れない。 だが、我々法華経の行者は、短い一生を教化折伏の御弘通ご奉公に精進させていただくので、 その功徳で、必ず未来成仏、寂光参拝を成し遂げ、無上の喜びに浸る事が出来る。 それと同じ頃、法華経の行者を謗り、あだをなした人々は、その報いを受けて地獄に堕ちて、大苦 にあえいでいるのを、我々は寂光から見て、どんなに痛ましく思うことだろうか。 また、堕獄の苦に沈み、もがく人々は我々の身の果報を見て、どんなにうらやましく思う事だろうか。 補足説明 ここのご文は、いただき方を誤ると、御祖師様が法華経の行者を謗る人々に対して、慈悲の無い 仰せのようにも感じられます。 しかし、御祖師様は常に世間の人々に謗法を改め、正法に帰依し、共に寂光参拝をしようと語り かけておられます。 そのために、生涯ご苦労をされているのですから、ここのご文は慈悲のお心のお言葉であります。 如説修行抄は、あくまで怨嫉迫害に苦しむ弟子・信徒に向けて、「思い定め」の信心を説いておら れるのですから、このような仰せの仕方をされているといただかなくてはいけません。 [目次に戻る] |
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今月は如説修行抄第6段後半「一期をすぐること程なし〜」のご文の解説です。 現代語訳 我々の一生は、この人生を生きている間は永いように感じるが、臨終を迎えた時はほんの一瞬の 夢のように短いものである。 そんな短い一生の間の法華経修行の中に、どれほどの怨嫉を受けるかは知れないが、断じて 怨嫉から逃げたり、恐れたりするような意気地のない心を起こしてはいけない。 例え、首をのこぎりで引き裂かれ、胴をやりでつつかれ、足には足かせを付けられて、きりでもま れるという惨たらしい肉体の責め苦を受けようとも、息のあるうちは、南○経、南○経と御題目を 口唱して、唱え死にの堅い不退の決定信心を持ち続けるなら、釈迦牟尼仏・多宝如来・十方分身の 諸仏は、法華経が説かれた霊山の会座ですでにお約束されたように、直ちにお迎え下さり、手厚く 我々を導かれて、霊山浄土へとお連れ下さる。 その時は薬王・勇施の二聖菩薩、持国天・毘沙門天の二天王や、十羅刹女は仏様に誓われた ように、法華経の行者を守護し、諸天善神は天蓋(てんがい・かさ)をさしかけ、幡(はた)を差し上げて 共にお護りを下されつつ寂光浄土へ送り給うに違いない。まことにありがたく、うれしい限りである。 ご署名・お添え書きについて。 この如説修行抄の末尾に、「文永十年癸酉五ぐわちの日 日蓮在御判 此書御身を離たず常に 御覧有べくさふらふ」とあります。 つまり、この如説修行抄は、文永十年(西暦1273年)の5月、御祖師様の御歳52歳に佐渡の 一の谷(さわ)で、ご著述されたのです。 「日蓮在御判」とは、御祖師様の花押(サインの事)が書かれていた事を表現している言葉です。 大事なのは、「此書御身を離たず常に御覧有べくさふらふ」の一文で、法華経の行者が修行させて いただく指針として、如説修行抄を常に読んで、その精神を忘れてはならないという、御祖師様のご注 意を下されていることを知っておきましょう。 開導聖人御教歌 如説抄はなたぬ人は多けれど 身によむ人は少なかりけり 如説修行抄は「不離身抄」と言われる通り、常に読む人は確かに多い。しかし、如説修行抄にお 示しいただいていることを、実践している人は少ないのである。 如説修行抄を実践することを、「身に読む」と言うのだから、佛立信徒は如説修行抄を常に拝見して、 法華経修行の実践の為に御題目をお弘めするための心構えを、持ち続けるのである、とお教えの御 教歌です。 [目次に戻る] |