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歴代御講有略伝

参考文献:開導百遠諱記念誌「随喜」

佛立新聞・大放光等

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佛立開導日扇聖人 第二世日聞上人 第三世日随上人 第四世日教上人 第五世日風上人

第六世日睿上人 第七世日淳上人 第八世日歓上人 第九世日聲上人 第十一世日颯上人

第十二世日宥上人 第十三世日如上人 第十五世日晨上人 第十六世日幹上人 第十七世日養上人

第十八世日地上人 第十九世日裔上人 第二十一世日勤上人 第二十二世日慶上人

第二十三世日丞上人

 

佛立開導日扇聖人

 文化14年(1817年)4月1日、京都蛸薬師に御生まれになる。御幼名は大路仙二郎。

 ご幼少から書、画、国書、漢籍に優れ、10歳で平安人物史に名を列ねるほどであった。

 29歳の時、日雄大徳に出会い本門法華経の教えに触れられ、入信をされる。32歳には立教

開宗の日を選び、得度されて「無貧清風」の僧名をいただかれる。

 得度以来、その溢れる英才を持たれていた開導聖人を恐れて、僧侶の学校である本興寺は、

開導聖人の入寺を拒否。関東への学校への入学を志すが、実際に苦しむ人々のために御奉公さ

れては、という言葉に思いどどまられる。

 京都東山の西行庵での修行をされる間、人々をどんどん御教化された。その信徒の増加を恐れ

た近隣の寺の怨嫉で所払いをされる。これを初めとして実に開講までに5回の所払いを受けられ

る。

 安政4年(1857年)1月12日、谷川浅七宅にて本門佛立講をご開講遊ばされる。開導聖人

41歳。ここから、高松と共に大津、大阪と御弘通を広げて信徒が急増する。

 慶応4年(1868年)7月、大津64ヶ寺の謀略によって逮捕される。(大津御法難)しかし、

これがかえって京都府知事公認の僧侶として認められることとなり、無罪放免される。

 明治2年(1869年)宥清寺を借り受けられる。ここに高祖手自開眼御尊像との不思議なご因

縁が結ばれる。御弘通は一層活発になり、大いに発展をとげる。

 明治5年(1872年)6月10日、再び怨嫉にあい、キリシタンの嫌疑をかけられ42日間の投獄

を受けられる。その後、明治8年、明治10年と法難を受けられる。

 明治11年(1878年)高祖六百回御遠諱に向け、自他共に大改良を断行。一向口唱信行の

宗旨を極められる。6月には「本門佛立妙講一座」を刊行。

 明治14年(1881年)11月11日から13日の間、高祖六百回御遠諱大法要を奉修。参詣は

1万5千人を超えた。当時の各地の信徒は3万人と伝えられる。翌年、関東にも御弘通が広がる。

 逸話として明治16年には開導聖人の御一代記が演劇で上演された。

 しかしこの頃、京都佛立講内で反乱が起き、17組が本能寺に走る事件があった。原因は首謀

者の慢心。その後、17組は本能寺の信心が習い損じていることを感じ、佛立講に復帰している。

しかし、これを機会に開導聖人は宥清寺を日聞上人に任され、麩屋町ご法宅に移られた。

 麩屋町ご法宅(現・長松寺)では厳しくお弟子方のご教導をされつつ、未来の佛立の為にご指南

を多く残された。

 明治23年(1890年)7月17日、大阪玉江親会場(現・本成寺)へ御奉公の際、大阪守口の

茶屋守田伊六の奥座敷(現・義天寺)にて御遷化。御歳74歳であった。

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佛立第二世日聞上人

 嘉永6年(1853年)1月1日、大津追分の米問屋御牧家の長男として御生まれになる。

 明治2年17歳で宥清寺にて得度。開導聖人より僧名を「現喜」といただかれる。程なく宥清寺

 住職にご就任になる。

 明治23年、開導聖人の御遷化にともない、第二世講有に晋位される。明治33年、本門法華

宗東校の教師となられる。明治36年、本門法華宗鷲山寺貫主に晋山される。

 明治37年、本門法華宗の管長に就かれる。明治44年、本門法華宗京都妙蓮寺貫主に就任

される。

 講有として長期に亘り本門佛立講を統率され、本宗本門法華宗の重責を果たされながら、明治

44年(1911年)8月5日、御歳59歳で御遷化。

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佛立第三世日随上人

 嘉永7年3月12日、京都室町御池上るにて、野原家の三男として御生まれになる。明治元年

15歳で得度。明治44年日聞上人御遷化にともない、第三世講有位に就かれる。明治45年、

本門法華宗管長に就任、大僧正位に晋まれる。日随上人は開導聖人の御遺徳を称えるため、

ご自分の栄位に代えても大僧正位を追贈を、と本門法華宗に提案。(開導聖人は大徳であった)

日随上人の貴い志によって開導聖人に大僧正位が追贈された。

 講有として大正中期まで本門佛立講を統率され、大正9年(1920年)12月12日御歳67歳

で御遷化。

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佛立第四世日教上人

 安政4年(1857年)12月11日、大津追分の御牧家の長男として御生まれになる。第二世と

は親類。明治2年、得度。僧名を「現随」といただかれる。明治18年(1885年)東京御弘通の

ため上京。関東佛立講を開講される。明治45年(1912年)1月17日、御歳54歳で御遷化。

 関東開講等の御遺徳を称え、後に佛立第四世講有位に加歴される。

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佛立第五世日風上人

 安政3年(1856年)1月18日、大津追分の小野山勘兵衛氏(初代講元)の次男に御生まれ

になる。

 慶応4年、入門間もなく開導聖人と共に大津御法難を受けられる。明治24年、日聞上人に就

いて得度。僧名を「現立」といただかれる。滋賀、中京地方の御弘通に当たられた。

 大正9年、日随上人御遷化にともない、第五世講有に晋まれる。第二世、第三世の御遺言に

従い、第六世日睿上人、第七世日淳上人と共に講有位輪番制を採られる。

 昭和4年(1929年)9月20日、御歳74歳で御遷化。

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佛立第六世日睿上人

 明治7年(1874年)神戸の明田家の三男として御生まれになる。明治14年、得度。

 大正10年講有輪番制に伴い、第六世講有に晋まれた。宗門行政に敏腕を振るわれる。

 昭和3年(1928年)7月21日、御歳55歳で御遷化。

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佛立第七世日淳上人

 明治5年(1872年)1月7日、京都市に西村家に御生まれになる。明治30年に日聞上人に

就いて得度。僧名を現良といただかれる。明治41年、大阪助給庵(現・清風寺)住職に就任。

 関西以南の御弘通に尽くされる。

 大正12年、第七世講有位に晋まれる。一時退任されていたが、大正14年に再び講有位に選

ばれる。昭和6年、高祖650回御遠諱の報恩御奉公に、宥清寺を現在の場所に移転。大伽藍

建築に力を注がれ、本門佛立宗根本道場として現在も見られる大本山の威容を完成される。

 昭和10年に次期講有を第九世日声上人に譲られるが、昭和13年御遷化に伴い三度、第十

世講有として昭和22年まで、第2次世界大戦、終戦後の混迷期に本門佛立講を統率。その間、

 本門佛立宗一宗独立実現の基礎を築かれ、昭和22年一宗独立を宣言、同時に御引退を表明

されると、本門佛立宗を挙げてその御遺徳を称え、「本門佛立宗中興開基」の称号を贈られる。

これが、本宗中興と今も申し上げる所以である。

 昭和31年1月6日、御歳85歳で御遷化。

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佛立第八世日歓上人

 明治2年(1869年)5月2日、京都市の田中家に御生まれになる。

 明治27年、日教上人に就いて得度。僧名を清歓といただかれる。

 明治34年、東京乗泉寺住職に就任。関東を中心とした御弘通に尽くされ、百ヶ寺建立の基礎

を作られる。その御遺徳を称え、昭和11年に第八世講有に加歴される。

 昭和19年5月30日、御歳76歳で御遷化。

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佛立第九世日聲上人

 明治8年(1875年)10月16日、京都市にて亀井家に御生まれになる。

 明治29年、日教上人に就いて得度。僧名を現行といただかれる。

 明治32年、光隆寺住職に就任。大正8年より宗門の重責を担われる。

 昭和10年、第七世日淳上人御退任に伴い、第九世講有位に晋まれる。

 昭和13年、9月23日、御歳64歳で御遷化。

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佛立第十一世日颯上人

 明治16年、京都市に第四世日教上人を御父として京都市に御生まれになる。

 明治40年、日聞上人に就いて得度。僧名を清純といただかれる。

 伊賀妙典寺、大津佛立寺の住職に就かれる。その間、宗門の重責を歴任。

 昭和22年、日淳上人御引退を受けて第十一世講有位に晋まれる。

 昭和27年、高祖立教開宗七〇〇年大法要の報恩御奉公に教化誓願七万戸を指揮。これを

成就し大法要にて御礼言上されると、日宥上人に後継を任される。

 昭和34年、第十三世日如上人御遷化に伴い、再び第十四世講有として晋まれる。

 昭和38年2月9日、御歳80歳で御遷化。

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佛立第十二世日宥上人

 明治21年(1888年)10月1日、日聞上人を御父として京都市に御生まれになる。

 明治40年、東京にて日教上人について得度。僧名を清勤といただかれる。

 明治44年、御父日聞上人の御遷化に伴い、宥清寺住職に就任。

 昭和の時代に入ると、本門法華宗との問題が生じ、その激化に伴い一宗独立の準備段階とし

ての特別教区制樹立に多大な功績を残される。

 昭和21年には一宗独立運動の為の本門佛立宗開創局の局長に就かれ、一宗独立実現の中

心となって活躍される。

 昭和26年、佛立教学院院長(現・佛立教育専門学校)に就任。

 昭和27年、佛立第十二世講有に晋まれる。昭和31年には開講百年慶讃大法要を執行。

講有位を第十三世日如上人に譲られる。

 昭和35年2月20日、御歳73歳で御遷化。

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佛立第十三世日如上人

 明治26年(1893年)東京港区に御生まれになる。日歓上人は叔父に当たる。

 明治42年、日教上人に就いて得度。僧名を現雄といただかれる。

 日教上人の御遷化に逢い、日声上人に師事される。その間、門下の筆頭としてよく御仕えにな

り、亀井家に入られる。大正6年、横浜親会場の担任となりここで終生御弘通に精進された。

 昭和の時代から宗門の要職に就かれ、昭和7年より佛立教学院の要職を歴任、昭和13年に

は副講有に就かれた。

 戦後は教学院院長、宗務総長等の重責を果たされ、中でも教育行政には数々の功績を残され

た。第十三世講有位に晋まれると諸行事が山積みされていたが、これをよく統率された。

 昭和34年2月9日、御歳66歳で御遷化。

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佛立第十五世日晨上人

 明治32年10月26日、東京麻布区に御生まれになる。

 大正5年12月25日、日歓上人に就いて得度。僧名を日教上人にいただかれた本名を以って

清長といただかれる。大正11年には早くも乗泉寺副住職となり、若くして後継者として辣腕を振

るわれる。翌年には日歓上人の御息女と御結婚、田中姓を名乗られ、乗泉寺住職に就かれる。

 終戦後、一宗独立運動に奔走されていた野原日海上人の後を受けて開創事務局幹事長に就

かれる。一宗独立後は宗法の作成に尽力され、宗法制定を実現される。

 昭和24年には乗泉寺を現在の渋谷鶯谷に移転、

 昭和38年、聞祖五百回御遠諱報恩御奉公の最中、第十五世講有に晋まれる。

 講有在任中は本山中心信仰の確立、内部改革に手を尽くされ、海外布教や社会福祉には深い

理解を示され、海外への御親教にも力を注がれた。

 また、高祖七百回御遠諱の「きりかえ運動」推進や、宗制改正に尽くされ宗綱、宗風を確立され

た。

 昭和59年、8月31日御歳86歳を以って御遷化。

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佛立第十六世日幹上人

 明治31年11月23日、京都市麩屋町に御生まれになる。祖父小山秀達師は開導聖人の最初

御弟子の一人。

 明治44年、日教上人に就いて得度。僧名を父の名を継いで清臣といただかれた。

 昭和7年清雄寺住職に就任。

 第二次世界大戦期には、大空襲によって本堂、庫裏を焼失し本堂再建に尽力された。

 昭和41年に第十六世講有に選ばれると、三期十二年に亘り御教導せられた。

 特に口唱に徹する御信心で常題目勤番制を取り入れられた。そして、海外への御巡教に力を入

れられる。この間、佛立会館、佛立霊地、本山宝蔵などの整備をされ、昭和53年に第十七世日

養上人に後継を譲られる。

 平成5年3月24日、御歳95歳で御遷化。

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佛立第十七世日養上人

 明治35年3月8日、静岡県浜名郡にて御生まれになる。東京の大学を目指す為上京した折、

乗泉寺信徒との出逢いによって入信。

 大正12年、関東大震災に遭遇され、乗泉寺に避難。当時の乗泉寺教務方が被災者救援に奔

走される姿に随喜され、得度を決意される。

 大正14年、第十五世日晨上人に就いて得度。僧名を正養といただかれる。

 昭和18年、師命により札幌親会場担任として赴任。当時は借地に仮本堂、参詣者は一人も無

しという状況であったが、懸命の御奉公で次々に現証を顕し信徒は随喜して改良し、御弘通は道

内に広がった。昭和22年の一宗独立によって札幌信広寺と寺号公称し、当時の教化総運動で

3年連続1位を獲得する。

 昭和37年、長年辛苦を共にされた御内室を亡くされ、ご自身も喉頭ガン、肺ガン、胃ガンにか

かられたが、見事にこれを平癒されて増益寿命の御利益をいただかれる。

 御法体御健勝に戻られた日養上人は、昭和53年第十七世講有に晋まれる。在位中は高祖大

士七百回御遠諱を奉修、本山講堂、法宅等の整備を完成。更に「きりかえ運動」を推進、宗内に

改良の輪を広げられる。また「百万霊会」を結成し、宗門の将来を展望された。

 昭和61年6月16日、不屈の上人も85歳をもって寂光にお戻りになった。

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佛立第十八世日地上人

 大正5年11月7日、第七世日淳上人を御父として清風寺に御生まれになる。昭和6年、第十

二世日宥上人を師僧に得度、僧名を現淳といただかれる。

 昭和15年東京帝国大学御卒業後、しばらく尼崎本門法華宗学林で教鞭をとられていたが、

兵役に召集され、各地へ転戦された。

 終戦の後、無事復員。昭和21年、日淳上人より清風寺第三世住職を委嘱されると、戦争で四

散していた信徒を結集し、昭和31年には現在の鉄筋の大本堂を建立された。

 昭和33年より宗務本庁の要職を歴任され、昭和51年宗務総長に就任。宗制改正、百万霊会

等の一大事業を完遂される。

 昭和57年、第十八世講有位に晋まれる。清風寺住職を日開上人に譲られ、進んで本山に止

宿され精力的に激務をこなされる。宗内はもちろん宗外にも尊敬を集められていたが、在任中の

昭和62年5月4日、御歳72歳で御遷化される。

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佛立第十九世日裔上人

 大正11年11月7日、第十一世日颯上人を御父として麩屋町法宅(現・長松寺)に御生まれに

なる。昭和16年、御父日颯上人の徒弟として得度。

 昭和18年には学徒として戦争に出陣されるも、無事昭和22年に復員。翌年には本山宥清寺

教務部に入られる。昭和41年本山執事長に就任。6期12年間に亘り御奉公される。

 昭和53年、当宗由緒寺院の誕生寺住職に就任。昭和57年、本山副住職に就任。

 これまでの間、宗務本庁の要職、佛立財団理事、審判調定審議会議長、大放光理事等の多岐

にわたる役職を約40年間勤められる。

 昭和62年、第十八世日地上人の御遷化に伴い、第十九世講有位に晋まれる。在任中は開導

聖人百遠諱の報恩御奉公を統率され、国内布教区は全て、海外へも巡教される。

 平成2年立教開宗の日、開導聖人百回御遠諱総修大法要を奉修される。

 講有退任後、二十世として晋位した水谷氏によって宗門未曾有の大混乱が生じ、講尊としてそ

の問題解決に奔走される。その後も宗門の要として今も法体御健勝で御教導遊ばされている。

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佛立第二十一世日勤上人

 大正5年2月23日、宥清寺親会場南隣に第二世日聞上人を御祖父、第十二世日宥上人を御

父に御生まれになる。

 昭和11年、第七世日淳上人を師僧として得度。僧名を清教といただかれる。

 昭和18年、本門法華宗学林にて勉学中、兵役の召集を受けられる。敗戦後、捕虜生活を経て

昭和22年、無事復員。昭和23年円妙寺住職日宥上人の下で御奉公を開始される。

 昭和29年、円妙寺住職に就任。以来、本庁、支庁の要職を歴任される。

 平成4年、二十世講有であった水谷氏解任という未曾有の大混乱の中、身命をなげうって第二

十一世講有位に晋まれる。混乱した宗門の危機に決死の御奉公をされる。在任中、国内外を問

わず御巡教に励まれた。

 中でも、混迷を極める宗門人全てに改良を、と平成14年にお迎えする立教開宗七五〇年に向

け、宗内に一人ひとり75000人報恩教化を発令される。

 講有任期満了を目前とした平成8年4月に病魔に襲われる。次期講有に日慶上人が選ばれる

と、「私の葬式は本山で」と最後まで講有としての責務を全うされんことを願われる。

 平成8年6月17日、正に命をかけて宗門を守られた日勤上人は、81歳をもって御遷化される。

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佛立第二十二世日慶上人

 明治42年(1909)9月17日東京都に御生まれになる。

 大正10年3月17日、第十五世日晨上人を師僧に得度される。僧名を正慶といただかれる。

 昭和26年、立正大学を御卒業。

 乗泉寺執事長を経て、新潟・妙耀寺、照妙寺、広長寺、常照寺、福泉寺、常行寺、常信寺、

易行寺等の住職、代務を務められる。

 昭和35年、第六支庁長、本庁弘通局長、弘通顧問、本宗参議等を歴任される。

 昭和63年、宗務総長に就任。

 平成3年、水谷講有の専横行為によって講有解任決議がなされると、講有代務者となられて混

迷を極める時局の舵取りをされる。この時から、宗門、本山、乗泉寺正常化に向けて長い闘い

が始まる。

 平成6年、乗泉寺住職就任。

 平成8年、第二十一世日勤上人の御退任を前に、宗門一致の総導師として第二十二世講有位

に推戴される。第二十一世日勤上人が任期満了目前で御遷化されると、直ちに第二十二世講有

位に晋まれる。

 在位中、御高齢の御身体に鞭打って宗門正常化問題等の陣頭指揮を執られ、国内外への巡教

は勿論数々の激務をこなされつつ、立教開宗七五〇年に向けての報恩御奉公を進められる。

 その御徳とお人柄で、山積みになっていた宗門の揺るがす問題を次々に解決され、ついに水谷

氏側と和解。宗門、本山、乗泉寺正常化を宣言される。

 平成12年、未曾有の諸問題を全て解決され、後の憂いなく次期講有位を日丞上人に託され

て御退任。

 御退任後は、乗泉寺の復興に尽力され、親しく信徒育成、本堂改装を実施された。

 しかし、佛立の清流を正された疲労が蓄積されてか、体調を度々崩され、ついにその御法体が

一期のご奉公を休まれる時が来る。

 平成13年10月22日、法寿92歳。ご家族、お弟子方の唱題の中、厳かに御遷化された。

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佛立第二十三世日丞上人

 大正9年7月29日、奈良本妙寺に先住日乗上人を御父に御生まれになる。

 昭和9年、第七世日淳上人を師僧に得度。僧名を良修といただかれる。

 昭和20年、本妙寺住職、権大僧正日乗上人御遷化に伴い、25歳で住職に就任される。

 以来、本妙寺門末興隆に尽くされつつ、昭和24年佛立教学院設立と同時に教諭として就任、

教学興隆会委員、教師研究会々長、教育院理事、佛立教育専門学校理事、教学審議委員等、

教務教育に多大な功績を残された。

 佛立教学の大家として数々の著書を残され、佛立教学の指針を示される。

 特に日扇聖人全集刊行には40年間の永き亘り尽力され、現在全34巻の完成を見る。

 平成12年、第二十二世日慶上人御退任に伴い、第二十三世講有位に晋まれる。現在、来る

平成14年立教開宗七五〇年御正当年に向けて御慈教を日々下さっている。

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